量子運命 ~自由意思の不存在について~

  著者:オパールマン 原文 2016.06.29 全面改訂 2022.08.07 一部修正2024.01.22


○前書き

『生命』とは『自分自身が生命ではない』と気付くまでの物語である。


○本章

もし、「あなたの人生の成功はあなたの努力のおかげではない」と言われたら普通の人は不快に思うだろう。これを受け入れられるのは、何らかの原因で自分の人生が上手くいっていないと感じる人だけだ。本文章はとりわけそういう人に読んで貰いたい。

以下に記すのは『自由意志は存在せず、人生は自動的に決まっている。社会システムも、それを前提として作られるべきである』という私の提案であって、どう思うかはあくまであなた次第である。


全ての根源である『存在する』とはどういう事か、真剣に考えてみて欲しい。
何らかのものが『存在する』とは『相互作用する』、要は影響を与えると言う事である。
間接的にすら何も影響を与えないなら、それは我々にとっては存在していないのと同義である。
少しでも影響を与えるからこそ"考慮する"必要が出てくるのだ。

当然存在する限りは、ビリヤードの玉がぶつかるように、1回、2回と同じ事が繰り返し起こる。いわゆる連鎖反応である。
要は自動的に動き続けると言う事だ
常に物理法則が切り替わっていようが、物質の量が少ないから次の相互作用まで長い時間がかかる宇宙を想定しようが、それは変わらない。

一方で、自由意志を生み出すシステムについて考えてみて欲しい。
人間の場合なら脳だが、それが本当に自由意志を生み出していると言えるなら、そのシステムの中に自動的に動く物はたった一つも含まれていてはならない。
なぜなら、その自動的に動く物によって結果が変わってしまうからである。


然るに、先程述べたようにありとあらゆる全ての『存在する』ものは自動的に動く。
よって、自由意志は存在しない。
また、どの様な物理法則の宇宙を想定しても、同じ理由で自由意志を持った存在など生まれ得ないので、神も存在しない。

人生は自動的に決まっており、金持ちになるか犯罪者になるかも全て自動的である。
自由意志を持っていると言う意味での『私』とか『あなた』は存在しない。
我々は単なる自然現象である。
自動的に動く複雑な自然現象としての『私』とか『あなた』は存在するが、石ころや台風と根本的な所で何の違いもない。
勿論、複雑さに違いはあるが、複雑さの違いは単なる言葉の区別の境界線であって、何か絶対的な特別な差があるということではない。

この問題を理解するのに必要なのは高い知能ではない、ただ単に人間には何の価値もないということを認められるかどうかである。
感情的にならず、論理的に判断できるかどうかに掛かっている。

この事実は不安を煽り、不愉快であるが為に強い拒絶反応を生む。
自分の手で人生を切り開くとか、自分らしく生きようとか、そういう人間が今まで大事にしてきた「美しい」とされる価値観が無価値であると認めることになるからである。
しかし、人類が次のステップに進むためには避けては通れない、とてつもなく重要な事だと確信するからこそ私は書いている。
少なくとも心情的に完全に認めたくないとしても、その方が遥かに確率が高いなら、それを元に社会が作られるべきであるとするのが、まともな社会人としての態度であろう。


以下によくある間違いを列挙する。

■『まだ万物理論が解かれていないから断定できない。』
科学が進歩してより完璧な理論が見つかっても、それで得られるのは「より深い解釈」であって、『事実』は変わらない。
万有引力の法則から一般相対性理論に進化しても、「重力」という事実が無くなるわけではない。
この世界が仮想世界で…などの極端な仮定をしても「重力」に相当する計算が行われている事に変わりはない。

■『まだ、脳の機能が完全に解明されていないから断定できない。』
『自由意志があるか?ないか?』と言うのは脳に関する問題の単なる一部分に過ぎない。
大きな逆三角形を思い浮かべてみて欲しい、それ全体が脳の機能全ての把握を表すとして、自由意志の不存在はその底にある小さな逆三角形である。
『自由意志があるか?ないか?』を証明するために必要なのは、それに必要な証拠だけであり、それは既に揃っている。
脳の機能が完全に解明された方が人を説得しやすいと言うだけの事であって、全くもって必須ではない。
(結論を先延ばしにするために何を持って完全なのかと言う基準も曖昧にされている)

■『魂がある』
魂があると仮定しても、それが存在する限りは自動的に動く、よって結論を先延ばしにしたいがためにファンタジーを導入しても結論は変わらない。
無生物が組み合わさってどうやって生物になるのか?と言う考え方自体が、実感に支配された間違った考え方である。
意識も生存確率を高めるから残った構造の一つに過ぎない。
意識はエピソード記憶の定着を強化し、再び同様の状況に陥った場合の生存確率が高まる。
興奮は戦闘能力や積極性の向上、愛は強固な連携を生み、同様に生存確率を高める。


ちなみに未来が決まっているかどうかと自由意志があるかないかは別である。
ベル実験によって未来はランダムであることは確かめられている。しかし未来が決まっていようが決まっていなかろうが、それが自動的に起こってる時点で自由意志は存在しない。
今後の実験によって量子ゆらぎ以外にもランダム性をもたらす現象が確認される可能性はあるが、それも自由意志とは無関係である。


以上で本題は終わりであるが、そうなってくると心って何だと言う疑問に行き着くだろう。
上記に述べたように『自由意思の不存在の証明に』そこの解明は必要ない。
ただし関連する話題なので、認知の話についても一応触れておくものとする。

そこで『テセウスの船』の話をしよう。
まずここに一隻の船があるとする。
テセウスの船』とは、「その船の一部のパーツが古くなったので取り替える、それを繰り返し、数年後全てのパーツが新品に置き換わった場合、その船は元の船と全く同じ船だと言えるか?」と言う問題である。

当然、名前は同じでも一部でもパーツが置き換わった時点で完全に同じではない。
しかし、これと同じことは我々の体の中でも常に起こっている。
細胞レベルで見てもそうだし、素粒子レベルで見ればもっとそうである。
プランク時間(意味を持ちうる時間の最小単位)ごとに厳密に言えば別の物理状態である。
つまり、本当は一瞬一瞬別人であると考えるのが正しい。
しかし、それら一連の流れを勝手に全て「自分」であると思いこんでいる。
私はこれを『生錯覚』と呼んでいるのだが、なぜ我々が生錯覚から抜け出せないかと言えば、我々が自己の感覚に支配されているということ以上に、もしそう考えなければ、自己の存在を否定する恐ろしい問題と真剣に向き合わなければならないからだ。
だから感覚的判断を盾に、この問題を無視しようとするのである。
しかし感覚的判断は何の証拠にもなり得ない。
我々は一定の有限構造をしている、だから腕が伸びたりもしないし、脳の認知機能にも限界があるのは当然だ。
一定の構造があれば、それがどれだけ高度でも、結局理解できるのは、それ以下の簡単な事とそれを土台とした少し上の現象の推測までである。
この構図は我々より遥かに高度な知的生命体でも同様に成り立つ。

そもそも、自己の認知に限界があるのは以下の理由により当然である。

■1 進化の歴史上、『脳の活動を把握する機能』は生存に無関係なので発達しなかった。
そもそも、脳の活動を把握するための機能を持つ脳の部位の活動はどう把握するのかと言う問題も出てくる。
『Aを把握するためのBを把握するためのCを…』となる。
(この辺りはラプラスの悪魔パラドックスと構造が似ている)

■2 心を生む土台となる脳(構成単位:素粒子、或いは超ひも)と、その中で発生する機能としての心(構成単位:細胞)とでは複雑さにおいて脳>心となるのは必然であり、 
心というシステムは、自らの脳の全活動をリアルタイムに把握、理解するには能力不足にならざるを得ない。
この能力不足こそが脳の全活動を曖昧な概念(心)としてしか理解出来ない原因である。 

■3 脳は情報を省略して処理効率を上げ、高度な機能を達成している。
生存確率を高めるためには近似値でデータ処理せざるを得ないのである。

■4 そもそも不確定性原理によって、たった一つの素粒子についても位置と速度の正確なデータを同時に得る事は出来ない。

結局、原理的に不完全にしか情報処理出来ないので、それを完全に理解し切ろうとしても当然完全には理解出来ず、心という物が捉え所のない物として感じられるのである。 

具体的実験例では受動意識仮説が挙げられるが、この実験を支持する人達でさえ、命令のキャンセルは可能だからまだ自由意志の可能性は残されているなどとのたまう。
私が言っているのはそうではなく、そもそも原理的に不可能だという話である。
そもそも自由意志という概念自体が、理屈はないけど意思は決まるという無茶苦茶なことが前提になっている。
それでも我々は実感に頼ってしか生きていけないので、『自由意志はないのに認知機能不足でそれに気付けない』と言う可能性を完全に排除してきたのである。
しかし、我々が今見ている世界も光のスペクトルを元に脳内で合成されたイメージでしかない様に、実感とは『私達がそう解釈している』と言うだけの事であり、この宇宙の真実とは全くもって無関係である。


いい加減我々はこの恐怖と向き合い、真実と対峙していくべきである。

 

 

 

 

○後書き

無駄なことを書くのは美しくないし、余計な混乱を生むだけなので本題から外れる話題はこちらに記述するものとする。

■量子運命を全人類に広めることの意義
正面から向き合いたくない問題に向き合うよう勧めてくる、ただ不快なだけの考えをなぜ広める必要があるのかを書いておく。
自由意志の不存在に気付けていない社会においては、必然的に遥か未来に生まれてくる電脳化した人や初めから性別のないデジタル生命体、元はペットだが高知能化後に人格をデジタル化した人などに対する差別が起こる。
どこまでのレベルから人扱いするかは自然と決まっていくであろうが、自由意志の不存在を理解できていないと、人工生命体が十分な複雑さを備えるようになったとしても、人工生命体と肉体を持つ自分との間には何か根本的な違いがあるという考えを持ち続けることになる。
もっと酷ければ自分には魂があるなどと言い出すであろう。
これによって差別が生まれてしまうのは必然である。
量子運命を多くの人が事前に理解していることで、将来起こりうる変革への準備や差別を未然に防ぐ事が可能である。

この変化を受け入れるのは宗教色の強い国では不可能に近い、まず日本から始めなければ、人々の認識を変える事は不可能だろう。
嘘を信じるというのは集団的団結力を最大化する人間の手に入れた最強の武器である。
神と言う概念は、まさにその最大の典型例だ。
私はこの文章で言うべきことは言ったが、数百年後、果たして人間は自分達が手に入れた最強の武器を論理的思考力で抑え込むことが出来るのだろうか?


■人類の進化について
一つのシナプスの電気信号が周りに電場などの影響を及ぼし、その影響が更にまた新しい影響を与えていく様な反響構造まで再現できるぐらいまで電脳が発達してくれば
将来的には人格をデジタル化することにより、今は絶対的な差だと思っている性別や年齢の差が意味が無くなる時代が必ず来る。
性差など所詮科学技術が不足しているから絶対的な差に思えるだけである。
高知能化した犬が祖母だったり、最初から性別の概念なく生まれてくる人や、複数の人格を統合した存在も現れるであろうし、記憶の売買も行われる。
人とは何かがますます曖昧な時代になっていくだろう。

それぞれの環境に合わせて最適な構造は違うのは当然だが、進化すること全般に関して言えば、進化とは究極的に効率化された構造に収束していくことである。
人格デジタル化後は限界まで効率的になるために、人々は新たに効率的な言語を生み出し、さらにお互いがお互いの発言を予測しつつ通信するようになるだろう。

今は感情的な事が人間的で素晴らしいとされているが、将来はより冷静な人間が増えていくように収束していくだろう。
現在のビジネス書、人生の指南書を見ても分かるように、結局言っていることは余計な心のブレに惑わされることなく淡々と数学的に成功確率の高いことをやっていけと言う事である。感情は生存確率を高めるために必要なので当面なくなりはしないだろうが、効率的構造に収束していくなら感情を完璧にコントロール出来るようになっていくのは必然である。
感情的なことが人間的で素晴らしいと言う先入観を捨てることができてからが、人間存在の本番となるだろう。

人格デジタル化後の社会の格差について
人格をデジタル化できれば完全サイボーグボディを使うにしろ、生身をネットワークに繋ぐにしろ、一般人も遥かに高機能化できる。
勿論、複数ボディを使えば擬似的なテレポート生活も可能であろう。
しかし、一部の金持ちは恐ろしいスピードで自己のデータを独自進化させることが可能なので、一般人との能力格差は桁違いに大きく開いてしまうだろう。
ただし、それら先に進化しきった人が行き着く先は人格を放棄するかどうかの選択である。
例えば、量子テレポートを転送と捉えるか、コピーと捉えるかという問題がある。
もし生存に関連して量子テレポートをする必要が出てくる時代が来てしまうと、量子テレポートに二の足を踏む人はそこで淘汰される。
そのように、究極に進化していく上で必要なのは、全ての変化を受け入れることである。
際限なく進化しようと自己の構造を改造し続ければ、どこかで自分の人格すら捨てる必要に迫られる、そこで自己を捨てられるかは大きな壁である。
勿論、ほとんどの人はそこで進化がストップしてしまうだろうが、一部の人間はその壁すら乗り越えていくだろう。
しかし、それはもうこの宇宙との同化の初期段階と言えるのではなかろうか。


■宇宙について
私の宇宙観についても書いておきたい。
私はホログラフィック理論、及びこの宇宙がブラックホールの内部であるという考えを支持している。
結局インフレーション&ビッグバンはブラックホールの生成と同義である様に見える。
要は、内部から見るか、外部から見るかの違いである。

私の不勉強なだけかもしれないが、以下のことについて言及している人を知らないので一応明記しておく。
ブラックホールが周りの物質を吸い込めば吸い込むほど事象の地平面の表面積は拡大していく。
当然さらに周りの物質を吸い込む量もどんどん増加していく。
それが我々の宇宙の膨張率の増加と相関しているのではないかと思う。
つまり、私の考えでは我々の宇宙の母宇宙での姿であるブラックホールが周りの物質を吸い尽くせば、我々の宇宙の膨張も止まる。
勿論母宇宙の中を移動していく過程で、新たな物質を飲み込み始めれば、また膨張し始めるだろう。
勿論、最終的にはホーキング放射により我々の宇宙は母宇宙へと戻っていく。
母宇宙も祖母宇宙へと戻っていくし、最終的には最初のイブ宇宙へと戻っていくだろう。
勿論、イヴ宇宙は無数に存在するだろう。
現状では、超ひも理論において余剰次元からの推測として10の500乗の物理法則のパターンがあると予想されているが、それが正しいかはともかく、同じ物理法則だろうとランダムさを生む量子ゆらぎにより同じ世界になる訳ではないので、実質的にほぼ無限の世界が考えられる。

究極の問いとして、『なぜ無ではなく有が根源状態なのか?』と言うものがある。
勿論なぜか?については永遠に答えは出ないだろうが、本当に何も無いなら何も始まらないので、我々が存在している以上、プラスとマイナスが打ち消しあった『ゼロではあるが無ではない』と言う量子力学的な意味での無が根源状態なのだろうとしか言えない。
重要なのは存在する物にはエネルギーの変化が許容されていると言うことだ。
つまり何事にも可能性があると言う事であり、同時にそのせいで同じ状態での永遠は不可能であると言える。
ただ、個人的には変化が許容されていると言うより、常に変化せざるをえないと言う印象を受ける。
何にせよ、全てのイヴ宇宙がゼロに帰しても、また別のイヴ宇宙が生まれ得るので、そういう意味での永遠はあると言えるだろう。

 

○最後に
冒頭で、「以下に記すのは『自由意志は存在しないのだから、それに基づいた社会になるべきである』という私の提案であって、どう思うかはあくまであなた次第である。」
と書いたのはあくまで受け入れて貰いやすいようにする為の文章テクニックであって、嘘である事を謝っておきたい。